こんにちは!Buzz Fixer編集部の吉井です。
輝かしい成績を数多く残した伝説の騎手である郷原洋行氏が死去したことが報じられました。
JRA歴代14位となる1,515勝をあげた偉大な騎手であり、多くの競馬ファンの記憶に焼き付いている騎手です。
(↑郷原騎手のニッポーテイオーが制した第96回天皇賞(秋))
今回は突然の訃報が報じられた郷原洋行騎手について詳しく取り上げていきます。
郷原洋行騎手が死去で死因の病気はなに?
【元JRA騎手 郷原洋行氏が死去】https://t.co/ToZUkAnfKg
G1級10勝を挙げるなど昭和から平成初期の競馬シーンを飾った元JRA騎手の郷原洋行(ごうはら・ひろゆき)氏が1月31日に病気のため亡くなったことが8日、分かった。76歳。鹿児島県出身。
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) February 8, 2020
今回の件について、スポニチアネックスは以下のように報じています。
G1級10勝を挙げるなど昭和から平成初期の競馬シーンを飾った元JRA騎手の郷原洋行(ごうはら・ひろゆき)氏が1月31日に病気のため亡くなったことが8日、分かった。76歳。鹿児島県出身。
8日に近親者だけで葬儀を執り行った。
郷原さんの訃報はスポニチアネックスだけでなく、日刊スポーツやサンケイスポーツなど有力紙がこぞって速報として報じています。
ただ、死因についてはいずれも『病気のため』とだけ書かれており、詳しい病気の内容などについては触れていません。
近年は体調を崩して、入退院を繰り返していたということは分かっていますが、病状について詳細に記載されている媒体はいまのところ無いようです。
ちなみに、郷原さんは若い頃から持病である痛風を患っていたことは過去にも報じられています。
20代後半から痛風持ちだった。朝起きて、靴下を履くのに30分もかかる。「何しろ痛い。真面目な話、騎手生活も半分諦めた」。それでも1993年に現役を退くまで活躍できたのは、“剛腕”と称された馬を動かす能動型の騎乗スタイルと同様に、強い意志で病気と向かい合ったからだ。
「痛風を一生連れ添う友達だと考えて節制した。(東京の)虎ノ門にある病院の先生と真剣に話し合って、痛風のメカニズムと、食事や運動で自分の体をどうコントロールすればいいかを教わった」
出典:デイリースポーツ
引退後や息子:郷原正洋について
ぼくが生まれた年の菊花賞ジョッキーだったんですよね。
『銀髪鬼プレス、テンメイを差す』
そのプレストウコウで辛い思いをした天皇賞を翌年カシュウチカラでリベンジとか。
郷原洋行氏のご冥福をお祈りいたします pic.twitter.com/GwyvaH0DXN
— LJH (@ljh9169) February 8, 2020
郷原さんは1993年に騎手を引退。
その後は調教師としての道を歩みました。
茨城県にある美浦トレーニングセンターに厩舎を開業。
調教師として初の重賞勝利は、東京ジャンプステークスのゴーカイです。
調教師としての成績もそこまで悪かったわけではありませんが、騎手としての成績が偉大すぎためか、世間の期待との乖離は大きかったようです。
定年まで3年を残して調教師を引退した後は競馬評論家などとして活動していました。
東スポではコラムの連載なども抱えていたため、今回の突然の訃報には驚いたファンも多かったはずです。
ちなみに、息子さんの郷原正洋さんも現在JRA調教助手を務めており、競馬に携わっています。
ネットの反応
今回の郷原さんの訃報を受けて、ネットではどのような声が投稿されているのでしょうか?
SNSなどを中心に、ネットの声を集めてみました。
本当に、凄い騎手だった。
馬の負担を第一に考えて、好位追走で最後に抜けだす競馬で、数々の重傷を獲得した。
86年のニッポーテイオーや89年のウィナーズサークル。
本当に懐かしい。
騎手から調教師に転向後も、優秀な馬を育ててJRAに凄く貢献した人だった。
また一人、昭和の職人が逝ってしまった。ご冥福をお祈りします。
亡くなった父がファンでした。年1回私が住むまちの競馬場に来た際には幼い私を連れて行ってくれて、パドック?で見た黒光りした競馬馬の美しさに驚いた事を憶えています。競馬場へ行くのはちょっとしたピクニックへ行くのと同じ気分でした。父と私の楽しかった思い出です。
郷原騎手のご冥福をお祈り申し上げます。
自分が競馬に惹かれ始めたきっかけがニッポーテイオーでした。17歳の夏には静内まで会いに行って1日アロースタッドにいました。
岡部さんでも増沢さんでもなく、僕にとっては郷原さんが紛れもないNO1でした。
ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りします。
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