こんにちは!Buzz Fixer編集部の吉井です。
桂福団治といえば、1894年から続く上方落語の名跡。
当代4代目の桂福団治は、関西演芸協会の会長も務める落語会の重鎮です。
そんな彼は、1977年に喉の病気にかかり、声を失います。
そこから確立したのが手話落語。
長い落語の歴史の中で、類を見ない挑戦に苦労しながらも、見事今のスタイルを確立した桂福団治を今回は取り上げます。
喉の病気で手話落語を確立
【声失い 「手話落語」の40年】https://t.co/du9th3lahT
上方落語界の大御所・桂福団治が30代の時、一時的に喉の病気で声が出なくなったことで取り組み始めた「手話落語」。それ以来約40年、第一人者として、弟子たちとともに活動の幅を広げている。
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) August 26, 2019
桂福団治は1977年のある日、声の出しにくさを感じ病院に行くと、喉にポリープがあるのが見つかりました。
手術して取り除いたものの、3ヶ月後に声を失います。
このとき、彼は関西にレギュラー番組を複数持っており、そのほとんどすべてを降板しました。
当時の心境について、彼は以下のように語っています。
「やっと勝ち取ったレギュラーだったのに。とにかく、体の一部が削り取られる思いでした。でも落語というものを捨てたくはなかった……」
さらに、当時の努力についてヤフーニュースの取材に以下のように語っています。
福団治は、手話教室を開くなど聴覚障がい者をサポートする施設「大阪ろうあ会館」の紹介でろう学校の教員と出会う。熱心に依頼すると、その教員は出勤前の朝7時頃から手話を教えてくれたという。3カ月で800語くらいをマスターした。
なんとか自分の芸を残したいという一心で手話を学び、手話落語を確立したとのことです。
間やタイミングを取りづらい手話を使って人を笑わすというのは至難の技ですが、彼の功績は多くの人を勇気づけるものでしょう。
桂福団治の弟子と破門の過去
福団治の師匠は、3代目の桂春團治。
彼は春団治から過去に破門を言い渡されており、そのときのエピソードとして横山やすしが土下座して師匠に謝ってくれたというものがあります。
横山やすしとは同期であり、一時期は2人で漫才をするほどの仲でした。
気になる破門の理由や経緯などについては、調べても詳しい内容は出てこず、不明です。
また、福団治は数多くの弟子も抱えており、自らの芸の継承にも力を入れているとのことです。
3代目福団治=祝々亭舶伝の死因は?
先代である3代目の桂福団治は、後に祝々亭舶伝の名前で活躍した落語家です。
本名は岡本憲二郎といい、2008年5月に亡くなっています。
晩年も落語会の発展のために精力的に活動していましたが、72歳という年齢で死去。
ただ、このとき詳しい死因や死去日などは一切公表されませんでした。
彼の死去から10年以上がたった現在も、死因については公表されておらず、不明のまま。
ファンからは『具体的な死去理由が知りたい』という声も多く聞かれますが、現在のところ公表されている情報はありません。
ただ、病のため病院で息を引き取ったというのは確かなようです。
ネットの反応
今回の報道を受けて、世論はどのように反応しているのでしょうか?
ネットの掲示板などに書き込まれたユーザーの声の一部を紹介します。
義務教育の課程に点字、手話を導入する必要あると思う。中途障がい者になってから覚えるというのも大変だし。
手話落語なるものがあることを初めて知った
ここには書かれていないしがらみや苦労もあったと思う
私には言えた義理じゃないかもしれないが
頑張って欲しい
すごいなぁ
人間誰しも努力すればなんでもできるということを実感させてもらった
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