こんにちは!Buzz Fixer編集部の吉井です。
大東亜戦争で数千人の死者を出したとされるパラオから生還した日本兵の1人である倉田洋二さんが亡くなりました。
倉田さんはパラオから生還後、その半生を戦没者の慰霊に捧げ、海外でも積極的に活動を行ってきました。
今回は、貴重な大東亜戦争の生還者である倉田洋二さんについて取り上げます。
死因:老衰 倉田洋二が死去
今回の件について、朝日新聞などは以下のように報じています。
パラオ・アンガウル島から生還した元日本兵で海洋研究者の倉田洋二(くらた・ようじ)さんが23日、沖縄県宮古島市の自宅で老衰で死去した。92歳だった。葬儀は家族、近親者のみで執り行う。
出典:朝日新聞
報道にある通り、11月23日にパラオからの生還者として知られている倉田洋二さんが亡くなりました。
死因は老衰とのことで、最期は自宅がある宮古島で息を引き取ったとのことです。
倉田さんは、先の天皇陛下(現在の上皇后様)が2019年2月に催された宮中茶会にも呼ばれ、メディアの取材も受けていました。
ただ、このときはすでに車椅子姿で、自分の脚では歩くことが出来ないほど足腰は弱まっていたようです。
このとき倉田さんは以下のようにコメントしていました。
「陛下にお会いできるのもこれが最後と思い、やってきました」
この言葉が本当になってしまったわけですが、最期まで戦友などの慰霊などでその人生を捧げた姿は、必ず後世に語り継がれることでしょう。
パラオ=アンガウル島から生還した日本兵
倉田洋二さんは、14歳のときにパラオへ渡り、陸軍二等兵としてアンガウル島の戦いに参戦。
パラオでの戦いは壮絶を極めたと伝えられていますが、そのなかでもアンガウル島での戦いはかなりの激しさだったと言います。
現在残っている資料では、このアンガウル島で亡くなった日本兵の数は少なくとも1200人。
倉田さんはそんな激戦地で生き延びた貴重な日本兵だったわけです。
日本に帰国後は水産試験場の研究員として務め、その傍ら戦没者の慰霊のためにその半生を捧げました。
2015年には、パラオ共和国アンガウル島あった慰霊碑が台風や高波などで甚大な被害を受けたことを受け、再建に向けて立ち上がった代表的な人物でもあります。
ネットの反応
今回の報道を受けて、世論はどのように反応しているのでしょうか?
ネットの掲示板などに書き込まれたユーザーの声の一部を紹介します。
戦後74年も経ったんですねぇ…。
ご冥福をお祈りします。
どんどん英霊と共に戦われた方々がお亡くなりに。
正しい話を伝えていかなければ。
どうしようもない政治家たちがたくさんいる現代
こういう貴重な体験をした英雄たちが亡くなってしまうのは本当に悲しいこと
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