【海軍中将】大西瀧治郎の評価 自決の最期と遺書。子供は?

歴史

こんにちは!Buzz Fixer編集部の吉井です。

2018年の夏も終戦記念日を迎え、母国を守った英霊たちに追悼の意を表するイベントが各地で行われています。そんななか、海軍中将として壮絶な最期を迎えた大西瀧治郎氏が各方面で取り上げられています。

大西瀧治郎は兵庫県氷上郡(現丹波市)青垣町西芦田に生まれ、地元の柏原中学から海軍兵学校に進んだエリート軍人です。海軍中将として、太平洋戦争で日本が負け戦に追い詰められた際、“最後の手段”として「特攻隊」を作りました。

国内外で賛否両論を生んでいる神風特別攻撃隊、通称特攻隊を作り上げた人物です。そんな彼の人生に迫ってみます。

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大西瀧治郎の評価

特攻隊がいかに無謀な作戦であったかというのは、後の日本でもさんざん語られてきました。そのため、日本国内でも批判の声はかなり多く聞かれます。

ただ、海軍中将まで上り詰めた実力と人望、そして人々に与えた影響は数知れません。

元大日本帝国海軍の軍人であり、最終的には大差にまで上り詰めた源田実氏は以下のようにコメントしています。

「大西とは一年ほどの同勤であったが、数年に匹敵する意義を持ち戦術思想、人生観に大きく影響を与えられた」「正しいことを正しいと認めることが大切なのであって何が国のためになるかで考え無節操と罵られようとも意に介すなという大西から受けた言葉は人生においてこれほど胸を打つ言葉はなかった」

また、同じく海軍の軍人でありこちらも大佐まで上り詰めた猪口力平氏は以下のようにコメント。

「日中戦争では攻撃機に乗って陣頭指揮をとり、飛行機、飛行船にも乗る、開戦以前から山本五十六大将に次ぐ日本航空の大立物として知られる人物であった」「大西は腹の据わった押しの強い闘志満々の士と評判であり、常に陣頭に立ち下から慕われ、また大西も可愛がっていた。智勇に優れた山本五十六と似た気風を持っていた。机上の空論や口先だけの人か実力あり腹据わり信頼置けるかが好き嫌いの基準であった」

後に海軍を指揮する立場に立った人物たちにも大きな影響を与えたことが分かります。

現代の人々の感覚では特攻=無謀という考えから、大西瀧治郎氏を批判する人も多いですが、当時の状況を考えれば苦渋の判断ともいえるのです。

ちなみに、特攻に至った彼の思想は以下のように伝えられています。

大西は、特攻は「統率の外道」と考えていた。また、当時の機材や搭乗員の技量で普通の攻撃をやっても敵の餌食になるだけとして、体当たり攻撃をして大きな効果、戦果を確信して死ぬことができる特攻は大愛、大慈悲であるとも考えていた。大西は特攻が始まる当時よく「青年の純、神風を起こす」と筆を揮い、猪口力平によれば「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである。」と語ったという。副官門司親徳に「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない。」と語ったという

自決の最期と遺書

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大西瀧治郎氏は終戦直後に割腹による自決を遂げました。

1945年8月16日渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し割腹自決した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。

この時残された遺書は5通あったと伝えられていますが、そのうちの1つは特攻隊で亡くなった隊員やその遺族たちに向けたものになっています。

この内容からも、母国を愛し、心の底から特攻という判断が苦しい判断であったということが読み取れます。

大西瀧治郎氏について語られるとき、その年齢から『子供も特攻したのか?』という話が話題に上りますが、大西自身に子供はいなかったといわれています。

また、以下のような話ものこされた文献から読み解くことができます。

親友の多田武雄中将の息子を、自分の子供のようにかわいがったが、その多田中尉は特攻隊として散華。

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